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物質文明華やかなりしこの世界に暮らすみんな、ご機嫌いかがでしょう。音楽について日ごろ考えることを書こう。

例えばカラオケで歌えたほうが楽しみは増える。でも、音楽の持つ性質は歌だけではない。無論、声は重要な要素だが、それは音楽の一つの側面にしかすぎない。歌だけを求めていたら、様々な可能性を持つ音楽はなくなってしまうし、表現者たる音楽家もいなくなってしまうだろう。残念ながら量産型の音楽は誰にでも作れる領域だ。それを教えない世の中は、どんなに不幸だろう。

私はできるだけ、音楽を聴くことに集中したいと思っている。それは作者へのリスペクトであり、自らにおいて音楽の存在を高め、維持するためだ。音楽に何かを求め、期待し、満たされたくて聴くのだろう。どんなジャンルの音楽であろうと、秘められた何かがあるのだろう。私はそれを「ありがたみ」と表現する。

そのうえで音楽への参加があるのだと思う。音楽のもつありがたみが分からずに参加したところで、まさに量産型音楽を垂れ流すだけだ。カラオケで歌えたとして、得手不得手はあれど誰にもできること(まさに量産型)だし、それは個人の能力であって、音楽そのものとは関係ない。つまりカラオケというのは、その音楽が個人にとって消費できる対象であるかどうかという指標のひとつにすぎない。

作り手がアイデアを具現化し、受け手がそれに追随できるメディアとしては、音楽よりも例えばマンガのほうが健全ではないかと思う。かつて平沢進氏は「音楽は負けました」と言った。残念ながら私もそう思う。世の中に音楽は溢れ、捨てるほどあるというのに、溢れれば溢れるほど手に入らなくなっていく仕組みがある。寒い時代だと思わないかい。

注:読み物としてまとめるために極端な文章になっております。他の意見を否定するものではありません。カラオケは遊びとしてとっても好きです。

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